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マラッカ海峡- 马六甲海峡 – Strait of Malacca
薄昏時に古都・マラッカの中心市街地に入ると、四方から湧いてくる色鮮やかな赤・藍・緑の原色の民族衣装を着た人の群れと、リキシャ(自転車で引く人力車)の洪水に圧倒される。ヒジャブを羽織ったマレーの女性、サリを着こなすインドの女性、Tシャツを着、広東語や客家語を話す中国系の家族づれの人並みが絶え間なく中心部の広場に押し寄せ、街中を奔り回るリキシャからは中国語のポップス音楽が大音声で唸りだされる。 喧噪から逃れるように、市中心部からマラッカ海峡の川沿い道路まで速足で歩いた。マラッカ市中心部は「タン・キム・セン・ブリッジ」という一本の橋によって二分されている。左岸にチャイナタウンなど東洋文化の拠点である旧文化街、右岸に教会や時計塔など西洋文化の名残が並ぶ世界遺産保存地区が広がる。この橋をひらりと渡ることは、西洋文化と東洋文化の間を超えることを意味していた。 「タン・キム・セン・ブリッジ」は「陳金声橋(Tan Kim Seng Bridge)」を音に沿って訳したもので、「タン・キム・セン」は「陳金声(Tan Kim Seng)」という人名だ。陳氏はシンガポール財務局秘書などを歴任したマラッカの名士だった。1862年に陳氏が建てた橋は1942年に一度破壊され、その後数々の修復を経て今に至る。橋というものは平和のときに人々が境界線を越えて交互に連絡するために建築され、不和のときには真っ先に破壊される性質のものなのかもしれない。 私は水の在る風景が好きなので、川沿いの船場から出る小舟に乗って、マラッカ川を下ってみた。対岸の川沿いに点在するインド料理店から漏れてくるカレーの香りと焼いたサテーの香りが夕涼みの風に乗って小舟まで漂い、それらの香りと潮水の香りが混在した強烈な匂いが一気に鼻と口を襲った。船上からフランシスコザビエル教会や小さな観覧車が見え隠れし、水面に建物の影がゆらゆらと投影され、河を行き来する小舟と相まって独特の風情を醸し出していた。マラッカの盛時には独特の西洋と東洋が融合した街並みの中、荷物を積んだ小舟が行き交っていたのかと、当時の景観を想像しながら河を下った。 马六甲是连接太平洋和印度洋的重要海港,也是马来西亚最具怀旧色彩的城市。在这里多种族人们和睦相处,相当悠闲。踏入马六甲市中心,首先看见的是满街跑的人力三轮花车。车夫们愉快地登着花花绿绿的三轮车,放着最拉风的中国流行歌曲,在百花盛开的大街小巷里穿行着,好不热闹。包头巾的马来人,穿纱丽的印度人,说着广东话和客家话的华人居多。 马六甲河穿城而过,使整个小城又有几分江南水乡的韵味。这条河把城市划分了两部分,河西是东方文化的鸡场街,而河东是西方文化的西方历史文化遗迹。马六甲河口的桥叫做【陈金声桥】。陈金声家境显赫,并对国家社会贡献甚多,1982年捐建此桥。此桥后被屡次炸毁再重建,面貌多变。 我喜欢有水的城市,为了逃避喧哗,我来到马六甲河边,坐上了游船。马六甲河并不大,可以乘船兜一圈。这条河哺育繁荣了这个城市,却也饱受过战乱之苦。她曾经拥有过一段辉煌的河海贸易时光,更是文化传播与东西方风俗交融的重要景点。如今挣得了世界遗产的名号的她,仍然在喧嚣中,日日人流如织。岸边在酒店消遣的人们倒影在河中,沿着河边是一家家的小店铺,售卖的东西大同小异,都是些绣品、折扇、丝绸、红木雕件、书画、石雕等。阳光斜照在绣花绷子上,浮现出一层民俗的情调和怀旧的色彩。 在河边,房屋沿着小诃两岸依次而建,高低相间,措落有致。偶尔有游船经过,在安静的河面上掀起阵阵涟漪。沿着马六甲观光,将可在面河的屋后大墙壁上发现画着有关马六甲历史故事的巨大壁画。这些壁画与河上风光揉和一起,沿河两岸色彩斑斓,别样一番景致。夕阳西下,河水平静,游船荡漾,两岸不同风格的民居,让人恍惚回到从前,坐在小船中,心中有种安宁的感觉。 Malacca is an interesting assortment of Western, Malay, and Chinese influences that has succeeded in doing what other places in Asia could not – to hold distinct cultures at once and have them co-exist in peace. The city is undeniably multicultural, with a strong scent of nostalgia pervading it. Entering the city centre, I was met with a flood of human bodies consisting of Malays in head scarves, Indians in saris, and Chinese in T-shirts speaking Hokkien and Cantonese. Rickshaw drivers blasting Chinese pop music at maximum volume darted around the city like sparrows, adding to the joyful yet chaotic atmosphere. The Malay…
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宇多田ヒカルの歌「COLORS」と蘇軾の漢詩「無一物中無尽蔵」
先週シンガポールの街中で、ショッピングセンターかレストランか何処だか忘れてしまったけれども、宇多田ヒカルの「COLORS」という歌が、周囲の人々の話し声の隙間を抜けて流れてきた。その場で私が好きな宋代の詩人、蘇軾の漢詩の中の一句、「無一物中無尽蔵、有花有月有楼臺」を思い出した。 宇多田ヒカルはスピーカーの中でこう歌っていた。 ”もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら塗り潰してよ キャンバスを何度でも 白い旗はあきらめた時にだけかざすの今の私はあなたの知らない色” この歌のどこが、宋代の漢詩との共通点があるのか? 蘇軾の漢詩「無一物中無尽蔵、有花有月有楼臺」は、多数の解釈が存在しているが、その基にある”禅”の考えは、二元論(dualism)を否定する考えである。二元論とは、世界は背反する二つの原理や基本的要素(例えば善と悪、黒と白、有と無など)から構成される、という世界観のこと。二元論の世界観のなかでは、”有”と”無”は対極的な関係にあり、”無”は良くないもので、”有”は良いもの、と見なされる。 蘇軾の詩は禅の考えに基づいて、二元論を否定し、”無”は”有”と対極的な関係にあるのみではなく、”無”の中に”有”を見出すことも可能なのだ、ということを説いている。と言っても分かりにくいと思うけれども、要するに、”無い”ことを”無い”と否定的に捉え、そのままで終わらせてしまうのは、つまらない、と言っている。 ”無”であること、真白であることは、裏を返せばまだ形が定まっていないということである。そして、既存の考えやしがらみに囚われずに、新しいもの、好きなものをその上に創っていける、ということでもある。そこには、尽きない可能性が秘められている。 「何も書いてないまっさらな画布の上には様々な思いを巡らすことが出来るけれども、もし、この画布に青や赤の色を付けてしまったら、画布はその絵(色)に限定されてしまう。 何もない所では、全てが可能だ。 絵筆をもって真っ白なキャンパスに向かった時、何もないかのように見えた場所にも、想像力を働かせ、心を投影すれば、そこには、自分が思い描く世界(花、月、楼臺)が鮮やかに浮かび上がってくる。」 これが、「無一物中無尽蔵、有花有月有楼臺」という詩の一つの解釈となる。 何かが”無い”ことに苦しんだことがある人、与えられた環境や様々な制約条件に限界を感じたことがある人にとっては、何らかの示唆を感じ取ることができる詩ではないだろうか。 そして宇多田ヒカルの歌も、”もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら 塗り潰してよキャンバスを何度でも。今の私はあなたの知らない色”と、何もないかのように見える場所にいても、そこから何か美しい絵を書くことをあきらめないでいようと、自分自身の可能性を信じることを歌っている歌詞ではないだろうか。 私は自分が大学を卒業してから今までやってきたことを振りかえってみた時、なんと無鉄砲なことばかり続けてきたのだろうと思う。親の移住についてカナダに移住したけれども、自分は漢字圏に帰って住みたかったので、知り合いがほぼ一人もいないアジア圏に帰ってきた。ここでのこれからの人生がどうなるか、皆目検討がつかない。 そんな時にこのような詩を読むと、一時的に自分を振りたたせることができる。 しかし「可能性がある」ということは「今まだ何も持っていない」ということの裏返しでもある。そして東京でも香港でもシンガポールでも、知人がほぼいないところからスタートしたというのは、気持ちをどうポジティブに持っても、実質的には大きなハンデであることには変わりない。 今はこの決断を後悔する日が来ませんように、と祈りたい。 上个星期匆匆走在在新加坡的街上时,记不清从购物中心还是餐馆中飘出了宇多田光的歌曲“color”的旋律。歌声从周围人们的嘈杂的话语声的缝隙间传来,当时我脑海里闪现出喜爱的中国宋代大诗人苏轼的一句“无一物中无尽藏,有花有月有楼台。” 宇多田光在这首歌中唱到: “如果說自己仅能画出沒有梦想的书作那就把书布塗乱吧 塗多少次都无所谓 白旗只有在弃权時才能高举現在的我是你所不认识的颜色” 这首歌和宋朝的诗有什么共通之处吗? 苏轼的诗《东坡禅喜诗白纸赞》中的“无一物中无尽藏,有花有月有楼台”有很多解释,基本上是“禅”的想法,对二元论是否定的。二元论就是认为世界由两个对立的基本原理或要素来组成,如善与恶,黑与白,有与无等等。二元论的世界观里,有和无是对立的两极,无是不好的,有是好的。 苏轼的诗却是从禅的理论出发,否定了二元论。有,无不是对立的关系,“无中生有”也是可能的。这样的主张可能令人费解,其核心就是将“无”认为是什么也没有,是个挺没趣的看法。 “无”,是什么也没有,但从另一角度看是一个没有定形的东西。而且再此之上没有现存的形式,条条框框的限制,新东西,自己喜欢的东西可以重新创造出来。从这里可以有无限的可能性。 在没有画过的新画布上各种各样的构思都可以考虑,一旦这张画布涂上了蓝或红色,它就被这个颜色限定了。 什么都没有的地方才有所有的可能性。 拿着画笔面对空空的画布,调动自己的想象力,把心里的东西投影到画布上,从哪里所想描绘的世界(花,月,楼台)等会栩栩如生地浮现出来。 这是这句”无一物中无尽藏,有花有月有楼台”的一个解释。 这句诗对为”一无所有”而苦恼的人,对所处环境和各种条件限制而感到被限制的人是很有启发意义的。 再谈到宇多田光的歌, “如果说自己仅能绘出没有梦想的画作那就把画布涂乱吧 涂多少次都没关系白旗只有在弃权时才能高举现在的我是你所不认识的颜色。” 不正是在什么都没有的地方,不管怎样都不会放弃画出美丽的画,坚信自己的可能性的美丽歌词吗? 回想从大学毕业到现在,干了一些鲁莽的事情。随着父母定居到加拿大,而后由于自己想回到汉字文化圈生活,来到了几乎没有熟识人的亚洲。丝毫想象不出此后将展开怎样的人生。 这种时候读这首诗,可以让自己振作一下。 但是“有可能”也可以看成“现在没有”。不管是东京、香港还是新加坡,从没有熟人的地方起步,即使再乐观地看问题,困难还是很大的。 现在为对这个决定后悔的一天不要到来而祈祷。 Utada Hikaru’s Japanese pop song, “Colors”, that I heard when walking around the town in Singapore, instantaneously reminded me of a classical Zen poem by a Chinese poet from the Song Dynasty, Su Shi. The Zen poem by Su Shi is as follows: “无一物中无尽藏 有花有月有楼台 There is everything in nothing, Flowers, moon, and pavilions.” Utada Hikarus’ song is as follows: “If you can only paint dreamless pictures on the canvas now,…
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甲板街:異郷から故郷へ続く道-甲板街:从异乡到故乡的路-Jalan Kampung Pantai (Dock Street): Homeward Bound
マラッカ川と同じ色に晴れていた空がにわかに曇りだし、稜線が霞んだと思ったら小雨がばらついてきた。傘はない。私が搭乗した舟は海峡を下る。岸辺に料亭が並ぶ繁華街をつき抜け、だんだんと岸部に人家が増えてきた。 湿った景色の中で少しでも明るい色彩を探したくて、目も心も対岸を追った。雨水が滴る大輪の紅色の花、れんが色の家並み。濡れた空を観覧車が周り、くすんだ家並みが何度も浮き沈みした。庭の樹木のオリーブ色の深緑が目にやさしい。ベランダに白髪の老人の後姿を見た。目を凝らすと、岸部に点在する人家のテラスからかすかな灯が漏れ、雨宿りしようと建物内へ向かって退散する人々の後姿が雨に滲んだ。 小雨が止まない中、小舟は「老街」と呼ばれるマラッカの旧市街へと続く港口を通り過ぎた。いくつかの灰色の老朽した建物に面する、もし知らなければ通り過ぎてしまうほどの何の際立った特徴もない港口だった。この港口から、「甲板街(別名:打鉄街)」、「打金街」、「観音亭街」と呼ばれる中華街の三つの代表的な道路へと抜けることができる。「甲板街」の名は船の甲板(デッキ)に由来している。その昔、マラッカを終の住処とするために遠くからはるばるとやってきた初期の移住者達が、初めて陸に足を下ろした場所が「甲板街」だったらしい。マラッカが栄えるにつれて地元の鍛冶屋の店舗が道路脇に並ぶようになり、甲板街は「打鉄街」という別名を授かったが、昔からの住民は今でも親しみを込めてこの道を「甲板街」と呼んでいる。 甲板街、打金街、観音亭街は、それぞれ「三多廟」、「甘榜吉寧清真寺」、「青雲亭」と呼ばれる寺を有している。中国南部、マレーシア、インドなど方々からマラッカの岸部から降り立った住民たちが衣食住を満足させたすぐあと後に着手したことが、彼らの神へ祈りをささげることができる場をこの街に建築することだった。彼らは故郷の信仰を忘れず、寺の線香と供え物が絶えることはなかったという。マラッカの移住者達は、一代、一代と長い年月を経て、異郷を故郷へと変えていったのかもしれない。そうであれば、彼らにとっては、マラッカ川は異郷から故郷を繋ぐ役割を果たした一筋の川でもあったのかもしれないー。 雨が止まない中、彼らが辿った道に思いを巡らせながら、マラッカ川を下った。しばらくすると小雨が止んだ。雲間から見える夕焼けが金色の光になり、川面をキラキラと射て、銀色の雲と波とを薄桃色に染めている。まぶしくて、私はしばしの間心配事を忘れて風景に見入った。未だ一世紀以上前の通称で街路を呼びならわし、先祖の神を忘れないマラッカの住民達を思うと、目の前をせわしく、あるいは泰然と道行く人々の姿に、ふと初期の開拓者達の面影を見いだせるような気がした。 离开餐饮街,在人家渐渐增加的河岸边倘徉,这时和马六甲河河水一样清朗的天空中片片云朵冒了出来,正想着是山脊还是云霞时,小毛毛雨滴直落下来。手中无伞。 我在湿漉漉的景色中极力寻找明快的色彩,极目远眺,探究着河对岸。雨滴落在大朵大朵的红花上,砖红色的房子一排接一排。游览车在湿润的空气中与那些老旧的房屋一起,起起伏伏。路旁庭院中深橄榄绿色的树木让人看起来那么舒服,白发老人的背影在消失在露台的入口。散布在河两岸的房舍中露出微弱的灯光,进入楼舍避雨的人们的身影在雨中隐约可见。 路上,小船从被称作“老街”的马六甲老区街道和港口穿了过去。 这一带都是古老的建筑,是个很有特征的港口。从这里开始,代表着中国城的三条名街甲板街(又称打铁街)、打金街和观音亭街是不能错过的。甲板街名来源于船的甲板。很久以前,从遥远的地方一路来到马六甲的人们,最早的落脚地似乎就是如今的“甲板街”。尽管后来随着马六甲的繁荣,这条街两旁都是铁匠铺,“甲板街”于是被称为”打铁街“,但是老住户们仍然亲切地称这里为”甲板街“。 甲板街、打金街、观音亭街,还有三多庙、甘榜吉宁清真寺、青云亭等各种寺庙。这是上岸后生活安定的人们建造的。他们建造了很多可以供奉心中的神的场所。沿着马六甲河登陆的居民们没有舍弃他们原居地的信仰,庙里的香火和祭品从来也没有断过。经过一代又一代,可能他们早已把异国他乡变成了故乡。因此,对他们来说,马六甲河或许就是从他乡流向故乡的一条河流。 雨仍在淅淅沥沥地下着,一边回想着移民们经历的路程,沿着马六甲河而下。 雨停了,金色的阳光穿过云层,照在水面上,波光涟涟。晚霞把银色的水波染成了浅粉色。阳光 下,我仿佛进入了梦境中。 My boat travelled down the Malacca River in a languid pace. As the boat left the bustling restaurant district and residential houses entered the view, the sky turned grey, and a sudden rainfall obscured the horizon in the distance. Umbrellas are nowhere to be found. Seeking bright colours in a blur of grey, my eyes turned to the shore. A giant Ferris wheel turning in cyclical motions hovered over the water, and stately mansions on the river shore rose and sunk from view. The gentle greens of olive trees, a wet, lustrous petal of a red orchid…
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マラッカの明朝風建築:马六甲的明朝建筑: Ming Architecture in Malacca
マラッカで街中を歩くときには、頭を上げて、空を眺めてみると、そこに思いがけず面白いものを見つけることができるかもしれない。 マラッカの空は地上の建物の屋根が描く遠近法的に先細りする複数の稜線によって、味わい深く演出されている。それら屋根は中国・明朝時代の建築物の規定に則って建てられ、多くの屋根の突出部の中央と両端はゆるやかな半円の形を呈し、秩序だてて青空を背景に点在している。そこではマレーシアにいながらも、均衝と秩序を求めた明朝時代の建築物を見ることができる。 なお中国の伝統建築ではたてものの壁を「山壁」、円形の突出部を「棟梁」または「馬背」と呼ぶ。棟梁(馬背)は円形ばかりではなく、平形、斧形、火灯形も見受けられる。これら形状は風水の“金木水火土”に由来し、それぞれ“金形円、木形直、水形曲、火形鋭、土形方”を表している(緩やかな半円形の“金”;三つの円弧を組み合わせた、さざ波立つ水面の円形の波紋のような“水”;上が尖頭アーチ形で,下が広がった形の“火”:上部が平らな“土”;直径の“木”)。 これら建築物が私の興味をそそったのは、“金木水火土”の形が「マラッカ」にあったからだった。明朝時代の建築物というのを、私はずっと中華文化圏の産物であると考え、またそれらの多くは中国国内でさえ近代化に伴って破壊され、当時の原型を今も留めているものは一部のみであるから、中国国内や東アジア諸国はいざ知らず、遠い東南アジアのマレーシアのいち地方都市にも、明朝時代の建築の思考が根付いているという発見は驚きだった。 これら屋根の美しさは屋根そのものというよりも、互いに競り合うように天に向かって伸びていく明朝建築の等質性と、それらが両側に並び繋がりあって形成する大胆な枠組みに縁取られて細い帯のように頭上に見え隠れする青空が織り成す、重層的な美の中にあるのかもしれない。まるで空は自然が織り成す変幻自在な一枚の絵、そして屋根はその絵を縁取るフレームのよう。 ついさっきまで明るく遠くに見えた空が暮れなずんで屋根の淵いっぱいに広がり、淵の中で星星が凍てついた花火のように冬の夜空に静かにきらめくと、私は思いがけぬ場所に美しいものを見た気持ちで心が一杯になった。 漫步在马六甲的街中,建议抬起头来眺望蓝天,将会出乎意料地看到有趣的景象。 马六甲的天际线,建筑物的锥形屋顶像绘画的透视法一样由多数的棱线意味深长的描绘出来。这些屋顶是按照古代明朝时期的建筑规定和外观而建造的。许多建筑物的顶部中心突出,两边呈现半圆弧状,在马六甲蔚蓝的天空衬托下,有规律的 点缀着。这些屋顶,大明建筑追求秩序和均衡的精神在眼前充分体现出来。 应当指出的是,在中国传统建筑中,建筑物两端地横向外墙为“山墙”,圆形突出的为“栋梁”(也称为“马背”)。马背不仅仅有圆形的,还有”平”形、“斧”形、“灯”形。它们是按照风水中的“金木水火土”的意义建造的,以各种各样的几何形状来表示。例如:“金形圆、木形直、水形曲、火形锐、土形方”。即:平缓的半圆形代表“金”;由三个圆弧组成的水波涟漪状代表“水”;上部尖锐突出,下部逐渐宽大代表“火”;顶部平坦形代表“土”以及好似一棵细长的树形状代表“木”。 这些屋顶引起了我的兴趣,是因为它们在马六甲这个地方。我一直认为明代建筑是中国的文化遗产。伴随着中国的现代化进程,当今许多古建筑在中国遭到了毁坏。能够将原貌保存下来的是极为稀少的。 中国国内、东亚诸国的情况不很清楚,在遥远东南亚的马来西亚,发现了明代建筑的原貌令我震惊。马六甲居民出于什么样的理由,什么样的信念在这里建起这样的建筑物呢? 比这些漂亮的屋顶更引人注意的是屋脊两侧,其形状像互相竞赛一样伸展到空中。这种两侧对称有序排列的明代建筑的特征加上成片大胆组合的轮廓,让掩映在其中的天空隐隐约约好似一层层蓝色的细带。 渐渐地远方明亮的天空被笼罩在夜幕下,晚霞里鳞次栉比的房顶上,星星像沙子般洒满夜空,闪闪烁烁的,我深深地陶醉在无意间看到的美丽的苍穹中,眼前的星际宛如一幅天然织就的画布,而建筑物的屋脊犹如画框一般把自然景色与人工雕琢的物体结合在一起了。
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マラッカの骨董店 – 鵬志堂 : 马六甲的古董店 – 鹏志堂: Malaqa House – Antique Shop (1)
マラッカの街には、歩くだけで映画を見るように愉しい店がたくさんある。マラッカ河を離れ、骨董街(Jonker Street)に入ると、表通りの現代的な欧米風のバー・レストランや装飾を重ねたホテルとは似ても似つかない、インド系や華人の個人経営店が所狭しと林立している。店先に積み上げた品物を売りたいのか、ただ積み上げているだけなのか、判断に苦しむような骨董店が軒をつらねているかと思えば、揮発性のつよいニスの臭いがたちこめる中で、店長らしき老人が時代物の家具を磨いたり、塗り替えたりしている店のとなりには、金属製時計を修理する店があったり、うっかり見過ごすような間口の狭い文房具屋があり、いったん中に入ってみると奥がしれなくて、思わず時間をつぶしてしまう。そこは、表通りのように「人にみせるため」につくった通りではないから、いったん地図をのみこめば、気取らない、どこか油断しているマラッカを、そっと肩越しに覗き込むといった、そんな愉しみがある通りが続いている。 例えば、Jalan Tun Tan Cheng Lock通りに面する「鵬志堂」(Malaqa House)。一日中歩き通した自分をねぎらう気持ちと、店先の真っ白な壁とマホガニー色に磨き上げられた看板に漂う品格のようなものに惹かれ、入り口のドアを押してはいって、私は目を瞠った。間口の狭さに比して、中は広々としていた。上を見上げると、大きな天窓が二つあり、燦燦と降り注ぐ光の下に戸棚、洋服箪笥、陶磁器、彫刻品、壁飾り、貨幣、腕時計、椅子などの骨董品がところ狭しとならんでいる。 店舗の建物は120年前に建てられた、「三落式」と呼ばれる、広間を三つ、天井を二つ持つことが特徴的な建築物で、マラッカを去った所有者から骨董店経営者が屋敷と敷地を買い取り、床の煉瓦、壁の花崗岩、木製の門と窓など、いっさいの装飾・改造を施さず、原型をとどめたまま店にしたものらしい。2000年には、マレーシアの歴史的建築物・文化遺産保護団体「Badan Warisan Malaysia」から文化保護賞を受賞している。步行在马六甲的街上,像看电影似的可以看到许多令人愉悦的店。一旦离开马六甲河岸走进唐人街,大街上现代化的欧美风格的酒吧、餐馆以及门面重重装饰的旅馆几乎看不见了,在狭窄的街道上林立着印度人和华人经营的商店。离开地图,离开哪些建给游客们看得商店,沿着这样的街道,朴实无华,有点不刻意打扮的马六甲显现在眼前。 一间古董店前堆积着各种东西,也看不出是准备卖的还是只是堆存在那里。正想问问,马上看到在边上一间散发出强烈油漆味中,一位可能是店主的老人正在对一些有年头的家具进行打磨,上漆。这间店边上是一家金属钟表修理店。表店隔壁有个入口窄窄,很容易错过的文房四宝店,进去一看,真让我流连忘返,时间不知不觉地过去了。在这种地方,找到中意的店,也算是个难得的乐趣。 比如“Jalan Tun Tan Cheng Lock”街对面的”鹏志堂”(Malaqa House),走了一天的路, 被店前雪白的墙壁和桃花心木色抛光的招牌散发的出的某种品味所吸引。打开大门一看,我的眼睛不禁放光了。相比入口的狭窄,里面非常宽阔。有两个大大的天窗,在高高垂下的自然光中,橱柜,衣箱,瓷器,雕塑,壁饰,钱币,手表,椅子等等古董,满满摆放着。这个房子是120年前建的。被称为”三落式“,有三个大厅,两个天井。古董店的经营者从离开马六甲的原主手里把土地和房子都买下。地砖,墙上的花岗岩, 木制门窗等都没有改造,用历史的原貌开了店。在2000年得到马来西亚历史文化保护机构「Badan Warisan Malaysia」颁以的文化保护奖。 Streets of Jonker Street are lined with Indian and Chinese antique shops. Shops selling authentic antiques are scattered among shops selling cheaper, unappealing goods, and part of the fun in strolling down the street is in attempting to find the diamond in the rough. Although commercialized to an extent, most of the boutiques, and art-houses, and shop-houses that line the street have a distinctly artistic and nostalgic flair to them, giving them an appealing charm. One of the best antique shops I visited was an antique shop/museum named…
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マラッカの骨董店 – 鵬志堂: 马六甲的古董店 – 鹏志堂: Malaqa House – Antique Shop (2)
鵬志堂の天窓の設計は、実利と趣味を兼ねた昔の人の知恵だったらしい。雨が降るときに、雨水が四方の屋根から天窓を通して家の敷地内に滑り落ちることを、「四水帰堂」という。雨水は東西南北、天上天下の“財”を意味し、「四水帰堂」は天の恵み(雨)が屋内に降り注ぎ、福と財を家の中に一所に集めることを象徴していた。また、天窓は採光と風通しの役割を担っており、節電にもつながった。また天窓の下の自然の光が降り注ぐ空間は、日除け、飲茶、休息、おしゃべりなどする場として機能しており、家庭内の人々がそこに集まり、寛ぐ場所だった。 店内にいた骨董主と立ち話をしたところ、彼は中国人で今も年の半分は中国で過ごしているが、マラッカへ旅行に来てすっかりこの街が持つ文化と歴史の魅力に魅せられ、店舗を買い取り、マラッカの骨董品を集めたり、中国の骨董品をマレーシアへ移入したりして、仲間と協力して鵬志堂の品ぞろいを充実させ、この店を作り上げてきたらしい。日光がやさしく降り注ぐ中、骨董主はオリエントの伝統を思わせる赤みがかったテーブルの上で、数人の常連らしき客とトランプを打っていた。店内で寄せてはかえす、小さな波のような常連客たちのおしゃべりを聞き流しながら、私はその郷愁を込めた店の生い立ちに惹かれ、店内の骨董品を眺めてあるいた。その時、ふととある考えが浮かんだ。数々の売り物が建物に彩りを添えているのだろうか?それとも建物が売り物を引き立たせているのだろうか?建物も売り物も、同様に「骨董品」であるので、判断が難しいところだろう。 店内から外に出ると、私はあっけらかんとした外の通り道を目と肌で確認した。過ぎ去った時間の歴史の痕跡が残された店内にいたので、あたかも時空を遡っているような感覚があった。店の両側の家々の小さな扉から、旅行者らしいよそおいの人たちが三々五々出入りしていることが、まだ21世紀のマレーシアの観光地にいることを思い出させた。表通りからほんの数分間の場所にこのような豊かな空間が隠されていると考えると、楽しい気持ちになった。私は店内の悠然とした時間の流れをあたまに納め、それらを大きな安全ピンのようにしっかりと体に留めてくると、店を離れて表通りの賑わいを探した。 下雨时,房顶四周的雨水通过天窗流入屋中,因无法流向其它方向而被称 为“四水归堂 “。从天窗下来的雨水 ,被比喻成东西南北天上天下的”财” ,象征着从上天来的恩惠缕缕不绝地降临到家中,福和财向建筑物内聚集。另外,天窗有采光和通风的作用,可以节电。再有天窗下面的空间是家人每天喝茶、休息、聊天 等的场所,全家人在此聚集,放松。 所以天窗这种建筑结构表现出古人在建筑房屋时兼顾实用性和个人爱好的智慧。 于商店内的古董商大概聊了聊,他说他是中国人 , 至今仍然全年的二分之一在中国生活。一 来马六甲旅行就被这条街上文化和历史的魅力所吸引。买下了店铺,和朋友一起从事收集马六甲的古董并把中国的古董输入到 马来西亚来的生意,让鹏志堂的商品更充实。在从天窗洒落下的柔和自然光中, 店主和几个熟客在深紫中带灰的东方传统式样的桌子 上玩扑克牌。在店里浏览一阵后 ,在 熟客们的聊天声中,我参观着这些能引起乡愁的古董。不禁发出这样的疑问,整个店铺也是个文物,到底是店里的古董品给这座建筑增添了光彩, 还是这古老的店铺把古董品的古色古香更衬托出来的呢? 没有在古董店逗留太久。来到街上,眼睛和皮肤的感觉很自然地告诉我, 一切的一切都是发生在一个普通的午后一条普通的街道。在凹凸的外墙后的几 米之内就藏着多彩的空间,真有一点无法想像。恍如从天窗射下来的阳光和墙壁的金色的闪光收藏到脑海里,就像有枚别针别住了一样存放在我的身体内,步向大街,找寻人群。 The skylight of Malaqa House was designed both for practicality and for charms. Apparently, in the ancient times, rain was viewed as a gift from the above. When rain fell into the inner courtside through the air well and gathered in the pond beneath the skylight, this was viewed as representing a gathering of luck inside the house. In addition to letting wind and light inside the building, the skylight also functioned as place where people could rest, drink tea, and chit chats under shade from canopies, offering…
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マラッカの平和街:和平街:Harmony Street (1)
骨董街(Jonker Street)、荷蘭街(Dutch Street)、平和街(Harmony Street)の三つの通り道は、マラッカの伝統文化保護地域として大きな価値を持つと同時に、いつ訪れても愉しい観光地区を形成している。中でも特徴的な平和街(Harmony Street)は、5分で歩き終える長さであるにもかかわらず、通りの頭に建つ観音廟から始まり、天後宮、印度廟、清真寺と、終わりに建つ基督教教堂まで、各種信仰の祈りの場がお互いに衝突せず同じ通りに共存・共生しているのには驚かされる。まさに多文化共生を体現した通りと言えるだろう。 マラッカで知り合った友人の話しによると、マラッカで様々な文化の共生を可能にしている要因の一つに、ここの人々は、人種や民族に限らず、すべての人々は、ここでは外来者であり、お互いにとっての通り客に過ぎない、と認識しているからだという。そこでは、「この土地は俺の土地だ!」と大声で叫ぶ権利を持つ人はいないのだ。たとえ自分の先祖がここで数百年くらしてきたとしても、元を辿れば、先祖の発祥地はここではなく、自分も外来者にすぎない。マレーシア人ですら、マレー語・英語と大量の外来語が入り混じった言葉を話し、さらには自ら特有の言語表記を持たず、ラテン・アルファベットを文字表記として活用している。自分の民族も昔は外来者だったという自覚と、人種・言語・文化の雑多な混合が、ここの人達に他者へ対して寛容であることを余儀なくさせているのかもしれない。 初期の移住者達は、その勤勉さと外来者特有のハングリー精神を持って異国に新天地を切り開いたが、苦しいことが多い移住後の生活の中で最も彼らになぐさめを与えたものの一つは、信仰だったらしい。各民族がそれぞれの慰藉を求めて建てた建築物が、寺院やモスクなどの祈りの場なのであり、彼らがお互いの心の慰めの場に干渉せずに共存してきた場所が平和街だったのだろう。 古董街、荷兰街、平和街这三条街,除了作为马六甲的传统文化保护区有重要的价值以外,已经成为了一个任何时候都给游客带来愉快的观光地带。有着近百年历史的Jonker 街的周围林立着许多明代建筑。在这条残留着历史印记的街上,有一种时空倒流(现代流行语—穿越历史)的错觉。 在很有特点的平和街上只需步行五分钟,就可看到“观音亭街、”打金街“、”打铁街“这三条中文名称的街道。从建在街头一端的观音庙开始,天后宫、印度庙、清真寺等,到建在街尾的基督教教堂,各种信仰的朝拜、祈祷场所毫无冲突地相互并存共生。我为此感到深深地震惊。这里真实地体现了多元文化的共存。 跟随这些印象,一种奇妙的感动打动了我, 在这条街上看到的,不是和人类的历史、 由来之类东西有如此惊人的相似吗。一位在马六甲认识的朋友告诉我,马六甲多种文化能够共存的原因之一是,这里对这里各个种族各个民族来说,所有的人都是外来人,大家互相都是宾客。这里没人有权利大喊:“这只是我的土地。” 即便有人的祖先在这块土地上有上百年的历史,倘若追根寻源,其祖先的发祥地也不是这里,也是外来者。追追溯到原始,马来人使用马来语、英语和大量的外来语混合在一起的语言说话。他们没有自己独特的语言符号,用拉丁语字母来书写。也许作为移民的自我认知,以及多重的人种、语言、文化的混杂,迫使这里的人们宽容地对待外来民族。 早期的移民们,勤勤恳恳 已外来者所带有的奋斗的精神在新的国土上开创着新生活。在艰难的早期移住生活中,带来最大安慰的是食物和信仰。各个民族为寻求各自的心灵慰籍所建各种各样的建筑物就是平和街的各种宗教建筑。这些建筑是相互共存,相互不干涉的产物。 The three major streets of Malacca – Jonker Street, Dutch Street, and Harmony Street – not only contain extremely valuable cultural and architectural heritages, but also form an area full of enjoyable tourist attractions. Harmony Street, which stands out in its uniqueness, can be walked through in approximately 5 minutes at brisk pace, yet contain Buddhist, Muslim, and Christian temples lined up alongside each other, co-existing in perfect peace facing the street. The place is an epitome of the spirit of tolerance that is central to Malacca. According to friends from Malacca, a factor…
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マラッカの平和街:和平街:Harmony Street (2)
]私は早い時間にホテルを出て通りを下り、観音廟を目指して平和街へ出た。 道の前方に観音廟が冬の早朝の張り詰めた空気のなかにその全貌を見せ始め、通りを渡って道の中腹にあるインド寺院にさしかかった瞬間、ちらっと横目で流し見た寺院の入り口に、私はほんとうに不思議な光景を見た。 一人のヴェールを被ったイスラム教徒の老婆が、インド寺院の前で手を合わせていた。 見ていると、寺院に入るでもなく、手を合わせた後にそのまま寺院を通り過ぎる。 次に彼女は仏教の会館の前を通り過ぎたが、そこでも会館を通り過ぎるときに入り口に向かって手を合わせ、中に入る人々に向かって笑顔で会釈した。 そして、数分歩いて清真寺というモスクにたどり着き、中に入るかと思いきや、そばにある基督教教堂の入り口を向いて手を合わせた。 そして、モスクの入り口で靴を脱ぎ、ようやくモスクの中へ入っていった。 これを見たとき、私はその周囲の寺院や行きかう人々を忘れてしまうほど、心を揺さぶられた。自分がこの街で尋ねていたものが、不意に向こうからやってきて、目の前にあった。カナダで経験して心から同調し、そして自分の故郷であるはずの東アジアで見たくてしかし見ることはできない、多文化共生の体現の極みが、そこにはあった。 今日日、国外へ出る人々がだんだんと昔よりは多くなりつつあるが、異文化に興味があったり好きだったりというわけでもなくただ必要に迫られたので異国へ出て、海外に暮らしながらも異文化への理解もそれらを尊重する意識も全く持ちえていない人々が結構の数存在している。そのような人は、異文化圏に進出し現地の人々と接するときも、「良い現地人、悪い現地人」と、自分の意に沿う行動をとる現地の人を「良い」、沿わない現地の人を「悪い」と、上から目線で勝手に異文化圏の人々へ道徳上の優越をつける。また外国人が彼ら自らの文化に沿って振舞うことに対して眉をひそめ、距離を取る一方で、彼らを労働力として上手く利用して自分の組織や国の利益に繋げようとする。そこには異文化の人々を尊重し理解しようという意識などなく、むしろ彼らをどう利用できるかという功利性と、閉鎖性が垣間見える。 一大早从酒店出来,直奔观音庙所在地Hamony Street。前方弥漫着冬季清晨的空气,走到路中段印度寺庙时,往门口扫了一眼,看到了不可思议的事情。 一个披着面纱,双手合十的穆斯林老妇人,并没有进入寺庙,而是穿过了它。接着又穿过佛教会所,并向进出的佛教徒们微笑致意。几分钟后又走到了一座清真寺门口,双手合十对着旁边的基督教教堂门口,稍后,终于把鞋脱在了清真寺门口进去了。 望着进去的老妇人,我对寺庙周围行走的人流浑然不觉,心灵被深深地震撼了。自己在探寻这条街,却不经意间看到了这样一幕。以往在加拿大的生活经验和它有一种心灵上的共鸣,而这种事情是我童年时生活在东亚未见到过的,多种文化共存的最高境界在这里。 与过去相比, 虽然现在越来越多的人离开自己的故土奔向异国他乡,并不是所有人都对异种族文化喜爱或感兴趣,而是由于种种原因来到海外,因此,这些人中许多并不理解、尊重他所在国的文化。当他们接触异国文化和当地人时,“当地的好人,当地的坏人”往往以自己的判断标准评判当地居民的好坏,自我优越感很强地从上向下地看人。另外如果住在自己国内的外国人,按其特有文化、语言、文化习惯行事就大皱眉头,在与这些外国人保持着一段距离的同时,把他们当作劳动力,来获得自己的利益。看不到尊重他人文化的意识,只看到利用这些从别的文化中来的可不可以赚到利益这种闭锁,功利的出发点。 I left my hotel at an early hour in the morning, making my way to the Buddhist temple of Cheng Hoong temple on Harmony Street. Just as I was walking past a Hindu temple, and the Buddhist temple had started to reveal itself in full form, resplendent under the hazy twilight of the winter morning, I witnessesed an unforgettable sight play out at the entrance of the temple. An old Muslim woman, covered in a veal, was bowing in front of the Hindi temple, her hands crasped tightly in front of her chest. A moment…
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マラッカの平和街:和平街:Harmony Street (3)
”マラッカの平和街:その(二)”の中で触れた現象の是非について深く書くつもりはないが、「ダイバーシティ」という名の下に実施されている活動の多くは、普段異文化とはおおよそ無縁の生活を送っている人が「国際主義」の大儀の下に自分の活動を正当化したり、自分にとって都合が良い異文化圏は褒め称える一方で、自分にとって都合が悪い異文化圏の人々は貶し排除しようとする、そのようなケースが少なくない。 だからこそ、私はこの女性が他宗教の寺院に向かって無心に手を合わせる行為に感動した。利害が発生しないところで、自発的に、心から、他者の宗教を尊重する精神を、彼女は持ちえているのだろう。異文化の人々の宗教や言語を、自分にとって都合が良いか悪いかという視点からではなく、独立した一つの存在としてのそれらの価値を認め、自分の文化と対等の立場で扱い、それらを「尊重」する「心」、これこそが多文化主義の真髄であり、彼女を通してそれをマラッカで見たと思った。 雨が降ってきたので、私は通りから観音廟の中へ急いで入った。一時間後に観音廟を出た時には、雨はほとんどやんでおり、ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は彼女の姿をまた思い出した。そしてたった今、深いところで心を揺り動かすような出来事に出会ってきたという、稀な感動にひたっている自分に気がついた。 彼女の姿を私が見たのはたった数分のことに違いなかったのだけれど、いまでも目をつぶると彼女の小さな姿と、赤・青・黄色に塗られた色鮮やかな仏教寺院が、まだ明け方の薄暗さが残った早朝の空を背に、薄白い光を浴びて聳え立つ様子が心に浮かぶ。明け方のマラッカの空を覆う薄紫の靄の色と一緒に。 尽管不打算深刻地讨论上述现象的是非曲直,许多打着“多元文化”、“国际主义”旗号的活动,是为了获得某种利益而必须接触不同文化, 而在“多元文化”的名义下而使自己的谋取利益的活动正当化的事情不在少数。那位无私心地面向其它宗教会馆双手合十的老妇人的行为深深地打动了我。老人的行为具有没有自身利害的关联、自发地尊重它种族宗教的精神。站在平等的立场上对待不同文化宗教信仰、文化语言,这是真正的尊重。这是我在马六甲从一位老妇人身上看到的多元文化的精髓。 落雨了,我急急走入庙中。一个小时后离开观音庙时,雨几乎停了。在重新明亮起来的街道上向下走着,老婆婆的身影再一次浮现在我的脑海中,这时才感觉到自己遇到了一件触动心灵深处的事,罕见地被深深地感动了。我所看到老夫人的举动也就持续了仅仅几分钟,可是到现在闭上双目,眼前仍浮现出那位老人以及装点着红、青、黄等艳丽色彩耸立着的佛教庙宇,在残留着灰暗朦胧的天空的背景下,被撒上淡淡白光,犹如漂在空中一般,显现在淡紫色霞光笼罩着的马六甲那辽阔的平原上。 I do not want to write in detail on the phenomenon described in “Malacca’s Harmony Street (2)”, but would only like to point out that the umbrella of “multiculturalism” is sometimes used to provide an aura of moral legitimacy to a range of public and private activities, without the owner of the activity actually sharing in the values of multiculturalism. That is why I was moved when I saw the old woman who had bowed towards the temples of religions not her own. She had been motivated to perform these actions solely by a sense of respect, and not for personal gain. I…
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多民族村「チティ村」の人々: 仄迪村 – 多元文化村: Chitty Village and Multiculturalism (1)
]マラッカの郊外に、マレーシアの「多文化社会」を最も良く体現している「チティ村」というユニークな村があると聞き、ホテルから距離があるにも関わらず、タクシーを拾ってわざわざ村を訪ねた。 チティ村は、“チティ人”と呼ばれるインド人とマレーシア人の混血の人々と、少数民族としての華人が同居する人口数百人の小さな村である。チティ人はマレー語と英語を話し、インド古来のサンスクリット語でヒンズーの神を拝む。今日日、多くのチティ人は華人と結婚しており、これら婚姻関係から生まれた人々はインド人とも華人とも似つかない外見を持ち、英語、マレー語、インドネシア語、中国福建地方の方言など多岐に渡る言語を活用している。私が会話を交わしたチティ人の女性はチティ人の祖母とチティとマレーの混血の父母を持ち、インドとマレーの神と観音を拝むと自己紹介した。 チティ村ではチティ人が村の土地を所有し、彼らが住まいを華人に貸し出ししている。純粋な華人は1割しかおらず、華人とチティ人の混血が3割を占める。華人は、チティ人と同様に村の寺院でインドのラーマ神を拝み、毎年の1月と5月に全村をあげて催されるラーマ神の祭事へも参加する。祭事では、村人が市中心の寺院からラーマ神を祭った神輿を担ぎ出し、太鼓の伴奏と、神輿の後ろで練り歩きながら苦行を行う人々、踊り狂う人々、高笑いする人々などと共に市内を巡行し、チティ村へ寄った後、夜に神輿を寺院へ担ぎ戻す。祭りの行列には鮮やかな真紅・黄色・橙色のインド服を着、額に赤い粉の印を塗した華人の女性達が、インド人の風貌をしたチティ人達に入り混じってヒンズー教徒の舞を舞う。 多言語・多宗教・多文化の中に生きるチティ村の人々は、まさにマレーシアの多文化融合を体現していると言って差し支えないだろう。 听说在马六甲附近有个小村叫仄迪村、是体现 马来西亚多种文化融合的最佳范例。于是产生兴趣、不顾距离较远、租车前往小村。仄迪村是被称为仄迪人的印度人和当地马来人的混血人和华人共居的人口几百多人的小村。 仄迪人说马来语和英语,用印度古代的梵语向神祈祷。现代很多仄迪人和华人通婚,所生的后代外观上既不像华人也不像印度人。他们能灵活地交互使用英语、马来语、印尼语以及中国福建的地方方言。和我谈过话的一位仄迪女士向我自我介绍她的祖母是仄迪人,而父母是仄迪和马来人的混血的后代, 并且拜印度和马来西亚的神和观音菩萨。不同的血统、语言和宗教、在这里出现有趣的融合。 在仄迪村,仄迪人拥有土地,他们把地租给华人。村里纯华人占人口比例不到百分之十,华人和仄迪人的混血占百分之三十左右。华人和同村的仄迪人一样到村里的庙中拜印度的罗摩神,也参加每年一月和五月全村举行的祭祀活动。祭祀时村里人把庙里的罗摩神的神轿抬出来,在大鼓的伴奏声中,或狂舞,或苦行, 或大声欢笑的人们一起在市内游行,通过仄迪村后午夜把神轿送回寺庙。游行的人群中混杂着不少穿着印度服装,前额点着红印的华人女性。 I heard there is a village near Malacca called the Chitty Village that is a prime representation of the multicultural melting pot that is Malaysia, and went to visit it despite it being far from my hotel. The Chitty Village is small village of several hundred residents, whom comprise of the Chitties – mixed descendents of Indian migrants to Malaysia and local Malaysians – and decsendents of Chinese migrants. The Chitties speak Malay and English, and use Sanskrit to pray to the Hindu gods. Many Chitties have married the Chinese, and mixed descendents from these marriages have an appearance unlike…
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多民族村「チティ村」の人々: 仄迪村 – 多元文化村: Chitty Village and Multiculturalism (2)
チティ村への小旅行で最も私の印象に残ったことは、この村の華人達の生活上の慣習についてだった。チティ村の華人はインドの神を崇め、インドの服装を着用し、さらに幼い頃から生まれの親とは別のチティ人の里親と親子関係を結ぶ慣習を持つ。これらは、チティ村で少数民族として他人の宗教や言語に囲まれて細々と暮らすことを余儀なくされた華人達が生み出した、異郷の中で生き伸びるための知恵なのだろう。 文化は、その文化を持つ人々の社会的地位と切り分けて語ることはできない。「マイノリティ」にあたる人々の文化的慣習は、公的に保護される措置が取られない限り、往々にマジョリティから疎外され、その文化を維持する人々を社会の周縁部に押し留める作用を持つ。村の人々から疎外され、周縁化されることを回避するために、チティ村の華人は、インド人の慣習を取り入れることによってしか、チティ村で生き抜く術がなかったかもしれない。 自らの宗教や服装など、彼らが失い、忘れてきたものたちを、また華人達の文化の忘却の上になりたっているチティ村の多文化社会の複雑さを、私は考えた。チティ村へ移住して数代を経た今、中国語で読み書きする術をすでに失った華人の子孫も多いらしい。そして一度失ったものをもう一度取り戻すことは、とても難しい。 少数民族の文化が辿る末を、チティ村でみせつけられた思いだった。 在仄迪村的短暂旅行给我留下的最深的印象是这个村里华人的生活。仄迪村的华人拜印度的神,有在幼年时除了亲生父母之外选别的仄迪人做养父母的习俗。这是在仄迪村里作为少数民族被别的宗教及语言所包围,为了生存产生出来的智慧吧。 文化习俗和拥有这个文化的人们的社会地位是不能割裂开的。”非主流”的文化如果没有社会的保护措施,往往被疏远。而拥有这些文化的人群则被推向社会的边缘。为了不被疏远不被边缘化,仄迪村的华人这个少数族群只能吸收接纳印度的习俗。这是在仄迪村生存的唯一办法吧。因为就目前而言,生存是最大的课题。 除了本民族的服装和宗教等等,仄迪村的华人所失去,所忘记的东西之多,还有在拥有多样性的同时华人文化的被忘却的仄迪村的复杂性,让我陷入深深的思考。在移居到仄迪村几代之后,大多数的华人子孙都失去了中文读写能力。显然一旦失去的东西再拾回是非常困难的。忘却之快,为了生存而不得不舍弃很多东西的人们,以及少数民族文化面对的结局,在仄迪村都能充分地看到,感受到。 The most memorable impression the Chitty village made to me involved the way the Chinese community lives here. The Chinese there, in addition to praying to Indian Gods, have a custom of appointing a Chitty God-parent to their children when they are born. Cultural practices cannot be considered separately from the societal context and rank held by the ethnic group that owns that culture. Minority groups’ cultural practices, if not proactively protected by law, often will have the effect of marginalizing the minority ethnic group that hold onto that cultural practice, pushing them to the fringes of society. The religious and familial practices…
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荷蘭街の掛け軸: 荷兰街的对联: Poetry on Heeren St.
マラッカの荷蘭街(Dutch Street)には、家々の門に伝統的な中国語の”対聯”(韻を踏んだ詩の掛け軸)が張ってあり、詩歌と礼節を重んじる中国伝統文化の痕跡を垣間見ることができる。家家の窓には“三多・九如”、“和気・至祥”;門には“福海・寿山”、“宗功・鳳舞”、“河図・洛書”などの字を見ることができる。ここの“三多”は、“多福、多寿、多子孫”の意味を持つ。掛け軸には字に加えて、八仙、仕女、蝙蝠、花草、書物などの図が添えられている。 街全体が一冊の本のようになっている荷蘭街は、書道や漢字が好きな人にとっては天国のような場所だろう。これら掛け軸は、静的で物質的な建築物に、生命の躍動感と個性を与え、同時に華人の美学をも体現している。残念なことに今日日多くのマラッカ華人の子孫たちは英語教育を受けてすでに中国語を読めなくなっているため、自分の家に掲げてある掛け軸の上の文字を読めない人も多いらしいけれど。 私はとある文房具店の門に、”平安两字值千金”という対聯の一部を見つけた。”平安两字值千金”は”平安は千枚の黄金の価値がある”という意味で、”平安”は静かな心の安らぎ、穏やかな生活、健康であること、平和であることなどを意味している。とても好きな言葉なので、この掛け軸の写真を撮った。 またその時はクリスマスに近かったので、写真を取りながら、クリスマス・イブを指す”平安夜”という言葉を連想した。また”平安果 ”という、”平安夜 ”=クリスマス・イブと、”苹果”=リンゴという二つの言葉を掛け合わせた、 クリスマス用に飾る彫刻や加工を施したリンゴのお菓子も思い出した。さらに“平安”という二文字から、旅立つ友人に送る言葉、”一路平安”も連想した。”一路平安”は”安全で良いお旅を祈ります”という意味。あらためて、”平安”という二文字を使った言葉は良い言葉ばかりと思い、この掛け軸に出会えたことを嬉しく思った。 さらに平安两字值千金の詩から、Max Ehrmannの英文の詩、”Desiderata”を連想した。”騒がしい人生のカオスのなかであなたの努力、あこがれ、そして目標が何であったとしても、内面の調和を追い求めなさい。どんな失望や苦労、叶わなかった夢を経験したとしても、世界はすばらしい。喜びに溢れ、朗らかでいなさい。幸せでいるために、あなたの全てをつぎ込みなさい。” 穏やかにくらしたい、幸せになりたいという気持ちは、時と土地が変われど、古今東西の人々に共通する思いなのだろうと、対聯の前でしみじみと思った。 马六甲的荷兰街上家家户户的门上都有中国的传统对联(一种对仗押韵的诗)。从这种对联中可以看到当地人重视中国传统文化的诗歌和礼节的痕迹。那里的窗上可以看到“三多・九如”、“和气・至祥”;门上可以看到“福海・寿山”、“宗功・凤舞”、“河图・洛书”之类的字。这里的“三福”是“多福、多寿、多子孙”的意思。除了文字,还配有“八仙、仕女、蝙蝠、花草、书籍之类的画。 喜欢书法和汉字的人,感觉整条荷兰街尤如一本书,是一个像天堂一样的地方。这些张贴的对联将生命的动感与个性,赋予给静态的物理建筑物的同时又体现出了华人的美学观。如今,由于受英语教育的华人后代不会读汉字,因此不会读自家悬挂或雕刻的对联的人越来越多。 我在荷兰街漫步时,落下了毛毛细雨。街两侧高楼林立,旅游者模样的人们三三两两出入于一户户的小门。在一家文化用品商店的门上我赫然看到“平安两字值千金”的对联。“平安两字值千金”的意思是“平安相当于千两黄金的价值”。“平安”指“健康的身体”、“平和的心态”、“稳定的生活”等多重意思。由于很欣赏这句话,我用手中的相机拍摄下了这扇门。 由于圣诞节即将来临,特指圣诞夜的“平安夜”这句话跃入脑海,继而联想到既然圣诞夜是“平安夜”, “苹果”又有个平的音,因此所谓的“平安果”就是一种为了庆祝圣诞节做成苹果样式的装饰物了。进而,联想到了人们送给旅游者的祝福“一路平安”。“一路平安”的意思是“祝愿出游的人们在旅途中平安、快乐。”讲到这里回顾一下,凡是使用“平安”这两个字的句子都是表示良好心愿的句子。 由门前的“平安两字值千金” 想到了Max Ehmann的英语诗“Desiderata”。在繁杂的人生道路上,不管你的努力、向往,目标是什么,一定要追求内在的平和。无论怎样的失望和辛苦,多少美梦不能成真,这个世界仍然是美好的。请欢欣愉悦地去生活。为了幸福,请投入吧。保持轻松愉快的心情,尽管时间在流淌,地域在变化,古今中外人们都会拥有一些共同的理念。 In Malacca, I found many delightful works of art around the town, one of which was in the form of scrolls of couplets poems hanging on sides of doors of people’s homes. A couplet is a two-line poem, wherein the two lines are equal in length, and where each corresponding pair of letters is arranged such that they have corresponding rhymes and meaning. Traditional Chinese Couplets often express wishes of health, happiness, and harmony for the household to which they belong. One of the most endearing couplet I found contained the…
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海峡華人珠宝博物馆: 海峡華人珠宝博物館:Straits Chinese Jewellery Museum (1)
海峡華人珠宝博物馆ほど、“眼福”という言葉が似合う場所も少ない。15世紀初頭、マラッカは外国語が飛び交う国際交易都市だった。約600年前、中国明代の武将、鄭和がマラッカへ航海し、当初マラッカ海峡に建国されたばかりのマラッカ王国をインド洋渡航のための根拠地として重視し、マラッカ国王と関係を築いた。マラッカ王国は鄭和艦隊の保護下で成長し、中国艦隊の来航が途絶えた後も中国の商人の行き来が絶えず、東西貿易の中継港として繁栄した。そのような商人たちの子孫であるマラッカに住む華人達の宝飾品を展示している場所が海峡華人珠宝博物馆である。ネックレスやブレスレット、靴、陶磁器、指輪など、インド、スリランカ、中国などの職人が精製した宝飾品や手芸品が数百件展示されている。 華麗な展示品を前にして、私は金と銀の光景に圧倒されながらもそれら品々をじっくりと観覧した。マラッカの華人たちが大切にしてきた、中国南部の伝統を思わせる赤みがかった金の装飾品のきらめき。透明であったり不透明であったりする、色とりどりのガラス細工。満開の桜や鳥の絵が内部にはめ込まれた、精巧そのものの真珠母。江西省や広東省へ特製品として発注し輸入した陶磁器。中国で縁起がいいとされる「牡丹」「鳳凰」などの柄が、桃色・青色・薄緑色などマラッカ特有の淡いパステル色で彩られた食器。茶器で有名な南部の景徳鎮市で、マラッカ専用に焼いてもらっていたこともあるらしい。 再也没有比海峡华人珠宝博物馆更适合 “眼福” 这个词的地方了。六百多年前,明朝时期的郑和航行到马六甲。视当时在马六甲海峡刚建国的马六甲王国为驶向印度洋的基地,招抚了马六甲国王。因此马六甲王国在郑和舰队的保护下成长起来,中国舰队停航以后中国商人仍来来往往。王国作为东西方贸易中继港达到了繁荣的顶峰。这样的中国商人在马六甲的子孙后代们拥有的珠宝在海峡华人珠宝博物馆展示。精细的项链、手镯、鞋、瓷器、戒指等等,都是受中国的设计花样影响,由中国、印度以及斯里兰卡等地的工匠们精心打造的。珠宝馆里展示着数百件珠宝首饰和工艺品。 我在金银灿烂,绚丽华贵的展品面前带着点感动凝神细看。马六甲的华人最喜欢的是中国南部传统风格的带红色的金首饰,镂空或不镂空的各种玻璃雕件。有盛开的樱花或鸟的图样的镙钿。向江西或广东特别定制的瓷器。中国吉祥物的“牡丹 “和”凤凰“图案的,桃红色,蓝色,淡绿色等马六甲流行的淡淡的柔和的色彩的餐具。中国有名的瓷器产地景德镇专门为马六甲所烧制的瓷器也有展出。 The Strait Chinese Jewellery Museum is a pure delight to the eye. During the Ming Dynasty, Zheng He, a seafaring eunuch explorer employed by the Emperor’s Court, travelled to African and Arabian Peninsulas with ships packed with Chinese porcelains, He founded stockades along the shipping lanes of Southeast Asia, one of which was based in Malacca. In the 15th century, Malacca was the midway point on the maritime crossing between China and the lands along the western rim of the Indian Ocean. Sailors from Zheng He’s fleets built homes and storehouses on the Straits of Malacca; many settled there permanently, with only one-tenth of the…
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海峡華人珠宝博物馆: 海峡華人珠宝博物館:Straits Chinese Jewellery Museum (2)
海峡华人珠宝博物馆は、外界とは違った歴史の速度が、館内の中を流れているよう雰囲気を醸し出していた。展示物を見ていて、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。博物館愛の宝飾品に象徴されたマラッカの華人達の財産は、彼らの先祖と、当時の政府に支えられた金融資本と海運業によって築かれたものなのだろう。マラッカの近代化と都市の観光化が進み、多くの華人がマラッカを去ってクアランプールやシンガポールへ移っていったあいだ、この宝飾品を使っていたひとたちは、いったいどこでどんな暮らしをしていたのだろう。展示品の上に、当時この家に住んでいた華人の女性達の写真が飾られていた。黒白写真の中できらびやかに着飾っておだやかに微笑む彼女たちの上にも、やはり都市の変容の時間は流れたに違いなかった。 写真に写っている女性の子孫だと名乗る男が館内にいたので、彼に写真の女性たちが辿った道について尋ねてみた。写真の女性(祖母)がマラッカの屋敷で育った最後の代の人で、母の代からマレーシアの他都市やシンガポールに渡り移った。アメリカ人と結婚した兄弟もおり、孫の代はマレー語と中国語を話せない子どももいるという。写真の女性は老後に娘一家と共にシンガポールへ移住し、マラッカで伝統文化を守りながら家族みんなが同じ屋根の下に住んだのは写真の女性の代が最後だったらしい。住む人がいなくなったマラッカの家は、博物館となった。 华人珠宝馆里的珠宝首饰象征着马六甲华人的财富。祖先们的金融资本的积累和航运业的建立得到了当时的政府的支持。 置身在博物馆中,感到外面快速变化的世界和久远的历史完全不同,馆内弥漫着一股薄雾般的气氛。我浏览着展品,一个疑问在脑海中闪过: 在马六甲的现代化进程及城市旅游业的发展进步之时,佩戴着这些珠宝类饰物的人们在何处过着怎样的生活?黑白照片中佩戴着宝光闪烁的装饰物的女子们的服饰应该也是随着华人向马六甲以外流动,以及街道面貌的变化而变化。 我在馆内遇到自称是照片中其中一位女性的后代。根据他的陈述, 那些照片记录该女子的人生轨迹。照片中的这位女性(他的祖母)是在马六甲的老屋中养育成长的最后一代。从她母亲那一代开始家族成员逐渐移居到马来西亚的其它城市或者新加坡。她的儿子作为一名会计师在新加坡工作,她的外甥与美国人结了婚,孙辈们已经不会马来语和汉语了。照片上的女人年老后与女儿一家居住在新加坡。她是遵循马六甲的传统习惯老人与子女生活在一起的最后一代。 Being inside the Straits Chinese Jewellery Museum, I wondered about what had transpired to the former owners of the jewellery on display there. The resources held by the Malaccan Strait Chinese were obtained by conducting international maritime trades supported by governments in power at the time. As Malacca became modernized and many Strait Chinese left Malacca for larger cities in Kuala Lumpur and Singapore, the lives of the men and women who were the original owners of these jewellery, whose photographs in black-and-white are displayed within the museum, must have changed in tangible ways. I met a man at the museum who introduced…
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海峡華人珠宝博物馆: 海峡華人珠宝博物館:Straits Chinese Jewellery Museum (3)
私はマラッカの華人女性達が宝飾品にかけた思いと、その子孫たちの今を思った。彼女たちが、はるばると遠い中国の職人へ発注したり、遠い場所から品物をマラッカへ海運してまで、それらを求めた理由は、なんなのだろう。 昔バンクーバーに居たときに、どっしりとした五段重ねの尾篭度を張った食器ケースや、切るときにいつも力が入るあたりが摩減した銀製のナイフを、大事に使っていた友人がいた。夫と二人で中国からカナダへ移住したが、カナダで夫と離婚し、離婚後の一時期落ち込んでいたその友人は、カナダから中国のずっと占めてあった家に戻って古い銀器を手に入れ、それらを荷造りして海運し、バンクーバーで銀器の包装を開いたとき、思ったという。これがあれば、どんな場所にいても、もういちど、やりなおせる。 マラッカの初期の移住者の女性達にとっては、使い慣れた食器や装飾品を異国でも手に入れたとき、彼女たちにも勇気がわいて、これがあれば、遠い異郷にいても暮らせるという深い安心と一緒に、定住へ向けての気持ちがより固まったのではなかっただろうか。そしてそのような役割を果たしたからこそ、それらの品々は代々大切にされてきたのではないだろうか。最も、それら品々が純粋に美しい、と言うのも、大切にされた一つの理由ではあるだろうけれど。 波が貝殻を残してゆくように、女性はかたみを残し、生きたしるしを置いてゆく。真珠や首飾り、繊細に刺繍した靴、かんざしや櫛。それらの品々は、博物館の片隅だけでなく、今遠い国々で、家々のたんすの奥に、ひっそりと息づいているのかもしれない。遠いいのちをひきついだ、新たな旅立ちを迎えた子どもたちのもとで。シンガポールやマレーシアに、今風のビジネススーツに身を包みダウンタウンを歩きながらも、数百年前に中国で特製した母や祖母の名残の品を、身のどこかに一つだけ飾った女性たちがいるのかもしれない。彼女たちは、それらを身にまとって祖母たちを思い、日々の暮らしの中で、ふと心華やいだりするのだろうか。 過ぎ去った時代の面影の品々にかこまれて見た、微笑みをたたえた女性の写真には、マラッカに特徴的な淡いパステル色の小鳥が描かれた銀色の首飾りが、小さな宝石のように輝いていた。 徘徊在展品前,佩戴着首饰的女子及她的后代现在过得怎样呢,我不禁遐想起来。像被波浪卷起而留在沙滩上的贝壳一样,女性们留下她们生活印记离去了。珍珠镶嵌的首饰、精致的绣花鞋、头梳等等,不仅能在博物馆的一角里看到,在某些遥远的地方,同类的东西或许正静静地躺在家里的衣箱里,这些子孙们在遥远他乡又要开始新的旅程吧。无论在新加坡,还是马来西亚,如今也会有现代的女性在时尚的服装上面点缀一件母亲或祖母留下的饰物。带着这样的饰物,身在在遥远的天空下,心里一定快乐安详吧。 观赏着笼罩在一个世纪前的气氛下的照片中微笑着的女子,银首饰上用具有马六甲着色淡雅特征的风格描绘的鸟儿像宝石一样闪烁着特有的光芒。 When I was living in Canada, I had a friend who had immigrated to Vancouver with her husband as a couple. While in Vancouver, their marriage fell apart due to the stress of immigration and of living in a foreign country. After the divorce, living alone in a new country, she had needed emotional support to sustain her new life, but it was nowhere to be found in her new home in Vancouver. She visited her old home in China, packed a set of old dinnerware inherited from her parents, and shipped them to Vancouver. When she opened her box containing the silverware in…
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マラッカが好き: 喜欢马六甲: Malacca-My Favorite City
マラッカに惹かれた理由に、この街の中に綿々と流れている異文化の重層性、あるいは多文化共存の精神がある。マラッカは中国、インド、ポルトガル、オランダ、英国、日本など複数国から影響を受けた歴史ある街であり、マレーシア観光の名所でもあるが、中華街・オランダ広場それぞれの旧市街地区は数時間あれば歩き終える規模の、小さな街でもある。また、ここには中国とインドの文化が根付いているが、中華文化の源流は中国だし、インド文化の源流はインドであり、どれもマラッカで発祥したものではない。しかし、街の人々が心をこめて各伝統文化を保存し、それぞれの文化がお互いに干渉・排除せずに共存している点に限っては、アジアの中では、マラッカ以上の街を見たことがない。 私は北京などの別所でもっと豪華で壮大な文化遺跡や建築物を見たことがあるけれども、このマラッカという、東西の文化が合流し、せめぎあう街だけが、三つの文化の中に育った自分の内面を映し出してくれた。だからここをいとしく思い、初めての滞在で好きになった。私は東アジア諸国の終わらないいざこざに心底疲れ嫌になっていたので、マラッカのような街が存在しているということは、なによりもなぐさめてくれた。マラッカに行く、というだけで、私は歴史の呪縛と閉鎖感に溢れた場所から離れて、ちょうどあたらしい段落をたてて気持ちを改めるときのように、東側のどろどろから解放され、洗い清められた。 滞在時、マラッカ海峡を大きくカーブして下り市を一周する下る船の窓からだんだんと遠ざかる市中心部を眺めて、私は今シンガポールで暮らしている自分が、あまりにもそこの一枚岩的な雰囲気に耐えられなくなったときには、またここに来て、ほっとする時間を過ごそうと考えた。 马六甲吸引我的原因之一是:这条街上多层次的不同文化的交错重叠,或说是不同文化共同存在吧。马六甲是一个受中国、印度、葡萄牙、荷兰、英国、日本等多国影响的历史小镇,虽然是马来西亚著名的旅游景点,唐人街、荷兰街等老街都是徒步数小时即可走遍的小街。此外,虽然中国文化、印度文化扎根于此,但中、印文化都源自于各自的国家,而不是发源于马六甲。不过,马六甲的人们用心地保留着各种传统文化。各种文化互相不排斥干涉而和平共存,在亚洲国家中比马六甲做得更好的地方还没有看到过。 我虽然在北京等处看到过比马六甲更有气势的文化古迹、更华丽的建筑物及书籍,但是,就马六甲而言,尽管它是东、西方文化汇合、冲撞的小镇,对在三种文化的哺育成长的我来说,更可以引起内心的共鸣。因此,我初次踏上这块土地 就喜欢上了。由于自己从心底厌恶东亚国家间无休止的纷争,发现居然存在着马六甲这么一个地方令我感到了安慰。在那里,远离历史束缚以及封闭感,有一种”翻开新的篇章”,“从泥泞中解放出来”的清新感。 逗留期间,乘船在马六甲海峡绕了个巨大的弧线,围着城市转了一圈。一边从船窗向外欣赏着远处海峡另一边的市中心,一边回味目前这个位于马来西亚却有着异国风情的地方。对于独自一人生活在新加坡的我来说,当无法承受周围一成不变的商业气氛时,再来到这里做短暂的休养吧。 The main reason I was drawn to Malacca is the city’s multifacetedness, and values of tolerance and harmony. Malacca, over the course of its history, has been infuenced by multiple countries such as China, India, Portugal, Holland, England, and Japan, and is also a major tourist attraction in Malaysia; however, it is also a small town whose Polish and Chinese central districts can be walked across in under several hours. Chinese and Indian cultures does exist there, but needless to say, the Chinese culture has its origin in China and Indian culture has its origin in India: neither cultures have originated in Malacca.…