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    宇多田ヒカルの歌「COLORS」と蘇軾の漢詩「無一物中無尽蔵」

    先週シンガポールの街中で、ショッピングセンターかレストランか何処だか忘れてしまったけれども、宇多田ヒカルの「COLORS」という歌が、周囲の人々の話し声の隙間を抜けて流れてきた。その場で私が好きな宋代の詩人、蘇軾の漢詩の中の一句、「無一物中無尽蔵、有花有月有楼臺」を思い出した。 宇多田ヒカルはスピーカーの中でこう歌っていた。 ”もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら塗り潰してよ キャンバスを何度でも 白い旗はあきらめた時にだけかざすの今の私はあなたの知らない色” この歌のどこが、宋代の漢詩との共通点があるのか? 蘇軾の漢詩「無一物中無尽蔵、有花有月有楼臺」は、多数の解釈が存在しているが、その基にある”禅”の考えは、二元論(dualism)を否定する考えである。二元論とは、世界は背反する二つの原理や基本的要素(例えば善と悪、黒と白、有と無など)から構成される、という世界観のこと。二元論の世界観のなかでは、”有”と”無”は対極的な関係にあり、”無”は良くないもので、”有”は良いもの、と見なされる。 蘇軾の詩は禅の考えに基づいて、二元論を否定し、”無”は”有”と対極的な関係にあるのみではなく、”無”の中に”有”を見出すことも可能なのだ、ということを説いている。と言っても分かりにくいと思うけれども、要するに、”無い”ことを”無い”と否定的に捉え、そのままで終わらせてしまうのは、つまらない、と言っている。 ”無”であること、真白であることは、裏を返せばまだ形が定まっていないということである。そして、既存の考えやしがらみに囚われずに、新しいもの、好きなものをその上に創っていける、ということでもある。そこには、尽きない可能性が秘められている。 「何も書いてないまっさらな画布の上には様々な思いを巡らすことが出来るけれども、もし、この画布に青や赤の色を付けてしまったら、画布はその絵(色)に限定されてしまう。 何もない所では、全てが可能だ。 絵筆をもって真っ白なキャンパスに向かった時、何もないかのように見えた場所にも、想像力を働かせ、心を投影すれば、そこには、自分が思い描く世界(花、月、楼臺)が鮮やかに浮かび上がってくる。」 これが、「無一物中無尽蔵、有花有月有楼臺」という詩の一つの解釈となる。 何かが”無い”ことに苦しんだことがある人、与えられた環境や様々な制約条件に限界を感じたことがある人にとっては、何らかの示唆を感じ取ることができる詩ではないだろうか。 そして宇多田ヒカルの歌も、”もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら 塗り潰してよキャンバスを何度でも。今の私はあなたの知らない色”と、何もないかのように見える場所にいても、そこから何か美しい絵を書くことをあきらめないでいようと、自分自身の可能性を信じることを歌っている歌詞ではないだろうか。 私は自分が大学を卒業してから今までやってきたことを振りかえってみた時、なんと無鉄砲なことばかり続けてきたのだろうと思う。親の移住についてカナダに移住したけれども、自分は漢字圏に帰って住みたかったので、知り合いがほぼ一人もいないアジア圏に帰ってきた。ここでのこれからの人生がどうなるか、皆目検討がつかない。 そんな時にこのような詩を読むと、一時的に自分を振りたたせることができる。 しかし「可能性がある」ということは「今まだ何も持っていない」ということの裏返しでもある。そして東京でも香港でもシンガポールでも、知人がほぼいないところからスタートしたというのは、気持ちをどうポジティブに持っても、実質的には大きなハンデであることには変わりない。 今はこの決断を後悔する日が来ませんように、と祈りたい。 上个星期匆匆走在在新加坡的街上时,记不清从购物中心还是餐馆中飘出了宇多田光的歌曲“color”的旋律。歌声从周围人们的嘈杂的话语声的缝隙间传来,当时我脑海里闪现出喜爱的中国宋代大诗人苏轼的一句“无一物中无尽藏,有花有月有楼台。” 宇多田光在这首歌中唱到: “如果說自己仅能画出沒有梦想的书作那就把书布塗乱吧 塗多少次都无所谓 白旗只有在弃权時才能高举現在的我是你所不认识的颜色” 这首歌和宋朝的诗有什么共通之处吗? 苏轼的诗《东坡禅喜诗白纸赞》中的“无一物中无尽藏,有花有月有楼台”有很多解释,基本上是“禅”的想法,对二元论是否定的。二元论就是认为世界由两个对立的基本原理或要素来组成,如善与恶,黑与白,有与无等等。二元论的世界观里,有和无是对立的两极,无是不好的,有是好的。 苏轼的诗却是从禅的理论出发,否定了二元论。有,无不是对立的关系,“无中生有”也是可能的。这样的主张可能令人费解,其核心就是将“无”认为是什么也没有,是个挺没趣的看法。 “无”,是什么也没有,但从另一角度看是一个没有定形的东西。而且再此之上没有现存的形式,条条框框的限制,新东西,自己喜欢的东西可以重新创造出来。从这里可以有无限的可能性。 在没有画过的新画布上各种各样的构思都可以考虑,一旦这张画布涂上了蓝或红色,它就被这个颜色限定了。 什么都没有的地方才有所有的可能性。 拿着画笔面对空空的画布,调动自己的想象力,把心里的东西投影到画布上,从哪里所想描绘的世界(花,月,楼台)等会栩栩如生地浮现出来。 这是这句”无一物中无尽藏,有花有月有楼台”的一个解释。 这句诗对为”一无所有”而苦恼的人,对所处环境和各种条件限制而感到被限制的人是很有启发意义的。 再谈到宇多田光的歌, “如果说自己仅能绘出没有梦想的画作那就把画布涂乱吧 涂多少次都没关系白旗只有在弃权时才能高举现在的我是你所不认识的颜色。” 不正是在什么都没有的地方,不管怎样都不会放弃画出美丽的画,坚信自己的可能性的美丽歌词吗? 回想从大学毕业到现在,干了一些鲁莽的事情。随着父母定居到加拿大,而后由于自己想回到汉字文化圈生活,来到了几乎没有熟识人的亚洲。丝毫想象不出此后将展开怎样的人生。 这种时候读这首诗,可以让自己振作一下。 但是“有可能”也可以看成“现在没有”。不管是东京、香港还是新加坡,从没有熟人的地方起步,即使再乐观地看问题,困难还是很大的。 现在为对这个决定后悔的一天不要到来而祈祷。 Utada Hikaru’s Japanese pop song, “Colors”, that I heard when walking around the town in Singapore, instantaneously reminded me of a classical Zen poem by a Chinese poet from the Song Dynasty, Su Shi. The Zen poem by Su Shi is as follows: “无一物中无尽藏 有花有月有楼台 There is everything in nothing, Flowers, moon, and pavilions.” Utada Hikarus’ song is as follows: “If you can only paint dreamless pictures on the canvas now,…

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